お墓参りのご案内

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長年の仕事のパートナーであった

武田栄美さんが亡くなって、

早いもので1年余が過ぎた。

2月末に事務所を移転する際、

武田さんが丹念に綴ったノートや記録は

そのほとんどを処分した。

とても一人分とは思えない数の文房具は

捨てきれずに持ってきたものも多い。

なかでもさまざまなサイズの定規には驚いた。

20センチから1メートル余、セルロイド製から金尺まで。

実に定規の見本市のように揃っていた。

昔の編集者はこんなものだったのか。

私などは40センチ1本で、それで用が足りないときは

いつも武田さんに借りていたような気がする。

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写植のフィルムや円を描くセルロイドの型なども

武田さんの机のなかで久々に発見して、

とても懐かしい思いがした。

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前置きが長くなった。

3月27日の日曜日、

有志一同で武田さんのお墓にお参りします。

場所は京都洛西の京都霊園。

午後1時ごろに阪急桂駅に集合の予定です。

参加希望者は私か、上野かおるさんにご連絡ください。

こういう機会も今後は少なくなると思います。

昔、好きだった漫画に、

「また、今度」

「今度なんて、ないよ」

という会話がありました(真崎守『死春期』)。

ご多忙中とは思いますが、

この機会に多くの方にご参加いただければ幸いです。

事務所の移転

弥生3月。新たな生命が蠢くころ、

新しい事務所の仕事始めです。

とはいえ、バテバテ。

谷崎潤一郎は引っ越しのたびに、

古い家具は処分して、新しい家具に買い換えたとか。

そんな贅沢なマネは望むべくもなく、

さりとてさほどの家具も荷物もないはずで、

しかも頼もしい助っ人まで頼んだのに、

なぜかヘロヘロに疲れはててしまいました。

やはり歳でしょうか。

事務所の移転は、もっぱら経費節減のため。

京都の中心部で、24時間なんでも手に入った場所から、

京都の辺境部で、最寄りのコンビニまで12,3分の場所への移転です。

昼飯を食べるところもほとんどありません。

(毎日、都ホテルでランチと洒落込むなら別ですが)

生まれ育ったのが辺鄙な場所だったので、

案外、こういうところも性に合うような気がしています。

まあ、実際に日々を送るようになれば、早々に音を上げるかもしれませんが。

で、その辺鄙さと矛盾なく同居しているこの土地の特性が、

京都でも有数の観光地であるということ。

蹴上。

馬に水たまりの泥を蹴り上げられて、牛若丸が9人斬り殺したとか、

九条山の粟田口刑場が迫ってきて足がすくむ囚人を蹴り上げて進ませたとか、

とかく縁起のよくないエピソードが地名の由来であるようです。

まあ、地名の謂われなんて、誰も気にぜず、シーズンには観光客が押し寄せます。

インクライン、浄水場、南禅寺、永観堂に、リニューアルなった動物園。岡崎公園もすぐだし、知恩院や青蓮院も徒歩圏内。

さてさて、今年はもっぱら散歩の年とすることにしよう。

で、半年ほどすれば見事にダイエット成功といきたいところです。

 

 

 

 

 

 

 

Paul Bleyの逝去

ジャズの巨人がまた逝った。
Paul Bleyである。
1月3日のことらしい。
83歳だった。
このピアニストは何ともとらまえにくい存在であった。
フリージャズ、確かに。
耽美的でセクシー、確かに。
駄作、濫作、確かに。
フリーなのは音楽のジャンルではなく、
精神だったのではないかと私は思う。
たとえば、1970年のアルバム『Dual Unity』。
当時のパートナーAnette Peacockとともに
全編シンセサイザーを演奏。
まだひきつれた電子音にしか聴こえない初期のシンセ。
こんなものを演奏しようというのが
精神の自由さの証に違いない。
しかし、これが意外に美しいから不思議だ。
当時のプログレのムーグとは明らかに異なり、
美意識に貫かれた演奏をしている。
Annette Peacock & Paul Bley『Dual Unity』(1970)
晩年まで創作意欲は衰えなかったが、
個人的には初期の作品を気に入っている。
FontanaとかFreedomなど欧州のレーベルの録音された作品だ。 
なかでも、『Blood』(1966)と『In Haarlem』(1966)。
硬くて、暗くて、妖しい。
ここには誰にも似ていないBleyだけの音楽がある。
両アルバムの曲はYou Tubeで見つからないので、
同時期の演奏を紹介する。
そういえば、Carla BleyとAnnette Peacock、
2人の元パートナーの作品を生涯弾き続けた。
ナルシストにしてフェミニスト。
音楽も確かにそう語っている。

後日談

私「お酒はどうでしょう」
耳鼻科医師「適量なら、血行もよくなり、むしろ薬です」
私「(^^)d」
医師「医学的に適量とは、ビールコップ1杯」
私「(゜ロ゜;ノ)ノ」
医師「過度の飲酒は、めまいに最悪の影響があります」
私「(~O~;)」

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年末年始のめまい

あけましておめでとうございます。

 

昨年末は鬼の霍乱。

体力だけがウリなのに、

年末年始は静養するはめに。

人生初体験のめまいはさすがにこたえました。

 

いちおうの病名は「良性発作性頭位めまい症」。

耳鼻科で診察を受けるめまい患者の約7割を占める

最も「ポピュラーなめまい」(笑)とか。

いちおうというのは、年末に診てもらった耳鼻科のお医者さんが

「めまいを起こす病気はごまんとあるので、確定はできないが・・・」と

おっしゃったから。

ただ、ネットで調べると症状もぴったりなので、

自分ではこの病気に決めつけている次第です。

 

このめまい。

本当にこれまで体感したことのない感覚で、

とても気持ちの悪いものです。

世界から剥がれ落ちる感じ、といえばいいのか。

ひっぺがされる感じというのが近いか。

そういえば、もう何十年も前に読んだ

サルトルの『嘔吐』を思い出しました。

主人公のロカンタンが公園のマロニエの根に覚えためまい。

あれは「存在の不条理」だったか。

今年は時間をつくって、読み直してみよう。

 

で、耳鼻科のお医者さんの言葉、

「めまいで命に関わるような病気はない」を信じて、

まだ車酔いのような状態が続いているものの、

今日から仕事始めです。

遅れている原稿があり、ご迷惑をおかけしているので、

できるだけ早く仕上げたいと思っています。

なんだったら、普段より集中して、

捗るんじゃないだろうか、などと今年もプラス思考で。

 

なお、数年前から年賀状をさぼっています。

虚礼廃止とか大げさなことじゃなくて、

単なるモノグサで、たいへん失礼しております。

早々に年賀状をいただいた方には、

この場で御礼とお詫びを申し上げる次第です。

 

では、本年もよろしくお願い申し上げます。

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ジャズを聴き始めたころ

Herbie Hancock『Sextant』(1973)を聴いている。

エレキマイルスをハンコックが演ると、まるでプログレのようになるのだ。で、この次作『Head Hunters』では、ガラッと作風が変わってファンクになる。4ビートジャズも完璧にこなすし、ハンコックはまさにカメレオンマンだね。

Herbie Hancock『Sextant』(1973) Full Album

プログレとかSSWとか聴いていた私が、こういうのならジャズも聴いてみようと思ったのが、ハンコックの『Sextant』の前作『Crossings』だった。深夜のラジオで聴いて、まんまプログレだと思ったのだ。当時好きだったプログレは逆にジャズの影響を受けたキング・クリムゾンとかソフト・マシーンだった。

お気に入りだったKing Crimson『Islands』、Soft Machine『5th』は、ホーンの入ったジャズロック的な要素が強かった。だから、わりとスムーズにジャズを聴きはじめた。高校生のときの話だ。ファッションとしてのジャズ喫茶にもはまった。だが、ほどなくジャズロックやエレキジャズには嫌気がさした。

わが「癒しのゾーン」の新作

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ベルギーのコンポーザー、ピアニスト、Myriam Alterの8年振りの新譜がEnjaレーベルから出た。

タイトルは『Cross/Ways』だ。

今回はイタリアの名手Luciano Biondiniのアコーディオンをフィーチャー。

地中海・中東の影響が色濃い「heavily nostalgic emotion」は本作でも健在である。

当分、ヘヴィー・ローテーションは間違いなし。

http://www.myriamalter.com/new-album.html

 

 

事務所では、原則として音楽CDはジャンル別に分類されている。

ジャズ、ロック・ポップス、クラシック、新譜(笑)の4ジャンルである。

ところが、ひとつだけノンジャンルのコーナーがある。

これを私は「癒しのゾーン」と呼んでいる。

簡単にいえば、心身が疲れたときのダウナー系音楽で、

私専用の癒し系コレクションである。

Anouar Brahem(oud)、Egberto Gismonti(p.,g.)、Eleni Karaindrou(comp.)、

Arvo Pärt(comp.)、Heinz Holliger(oboe)、Cassandra Wilson(vo.)が

そのゾーンの主力メンバー。

そして、Myriam Alterも、作品数こそ今度の新譜で6作目と少ないが、

そのゾーンの重要な成員である。

 

Myriam Alterの新譜はまだYou Tubeにアップされていないようなので、

旧作を2,3紹介しておく。

 

「Come With Me」https://www.youtube.com/watch?v=qUSMsd6MCvA

「If」https://www.youtube.com/watch?v=J6-ZOFl6lrg

「Romantic Mood」https://www.youtube.com/watch?v=WS_le0P28Tc

 

 

 

墓前の祈り(武田栄美さんの納骨式で)

谷筋を初秋の風が渡っていった。

シルバーウイークとやらの初日、9月19日の土曜日。

武田栄美さんの納骨法要に続いて、納骨式が執り行われた。

場所は京都は西の端(洛西)の京都霊園。

山腹に棚田のように墓地がしつらえられ、

多くの墓石が並んでいた。

2月13日の永眠から約7カ月。

彼女の骨はようやく共同墓で土に帰ることになった。

お母さんも成人後見人のお世話により、

いまでは老人ホームに落ち着かれている。

この日、お母さんもにこやかに参列され、

階段を自分の足で降りる

お元気な姿を拝見することができた。

武田さんの友人として、野々口さん、木村さん、

東京から小川さん、瀧口さんが参加した。

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納骨法要

幽冥境を異にする。

当たり前のことだが、秋の陽に照らされた墓のまえで

それを実感した。

たぶんもう事務所でも、背中に武田さんの気配を感じることはない。

そのために7カ月は長かったのか、短かったのか。

武田さんの机とロッカーの遺品も、近いうちに処分しようと思う。

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納骨式

共同墓におかれた武田さんの写真代わりのイラスト。

それを拝みながら、心のなかでつぶやいていた。

「仕事、けっこういろいろあって、楽しかったよね」

実にさまざまな仕事を一緒にしてきて、

苦労したことも多かったけれど、

なんとかやり遂げたときの喜びは共有していたと思う。

「楽しかった」

武田さんもそう思ってくれることを切に願う。

それが神頼みを嫌う私の

唯一の祈りである。

 

墓苑の緑の向こうに

武田さんが生きた京都の町が広がっていた。

ほどなく秋が過ぎ、冬が来る。

生きている者の時は止まらない。

さよなら、武田さん。

 

 

 

新しい9月の楽しみ

9月に入るとともに、空気が変わった。

日中はまだ暑いのだが、秋の気配がそこはかとなく染みこんでいる。

私の秋のイメージは、単純に「清澄」だ。

たとえば、谷川俊太郎のこんな詩。

 

九月のうた

あなたに伝えることができるのなら
それは悲しみではありはしない
鶏頭が風にゆれるのを
黙ってみている

あなたの横で泣けるのなら
それは悲しみではありはしない
あの波音はくり返す波音は
私の心の老いてゆく音

悲しみはいつも私にとって
見知らぬ感情なのだ

あなたのせいではない

私のせいでもない

 

で、これまた単純で申し訳ないが、

「九月の歌」といえば、

クルト・ワイル(Kurt Weill)の「September Song」。

ユダヤ人であったクルト・ワイルは、

ナチスの迫害を受け、

パリを経て、1935年にアメリカに移住。

そのせいもあってか、ジャズ・スタンダードになった

クルト・ワイルの曲は枚挙にいとまがない。

この「September Song」もそのひとつで、

シナトラやチェット・ベーカー、

ビリー・ホリディなどが歌い上げている。

 

ここでは、2つの「September Song」を紹介しておきたい。

まずはロック畑のルー・リード(Lou Reed)。

これはハル・ウイルナー(Hal Willner)がプロデュースした

クルト・ワイルへのトリビュートアルバム

『Lost In The Stars: The Music Of Kurt Weill』(1985)に収録された曲。

ジャズグレートたちより淡々と、

しかもルー・リードの色に染め上げ、歌いきっている。

続いてもう1曲。

この7月に逝去した菊地雅章の演奏だ。

Gary Peacock、Paul Motianとの

Tetherd Moonと名付けられたトリオは

私の最も好きなジャズグループの一つだった。

Tetherd Moon『Play Kurt Weill』(1995)より。

断片となった原曲のメロディーの美しさが

私にとってはこの上なく魅力的だ。

今年は少し余裕をもって、

秋の「清澄」を楽しめるのかどうか。

胃袋ばかりがうまい酒と秋の実りを欲張らぬよう、

少しばかり自戒したいものである。