「消えたランプの発端から終焉までを告発する
発生する癌の戦争
大砲の車輪のひと廻りする時
無意味に穴のふさがる時
多くの人類の死・猿にならねばならぬ無声の死
下等な両生類の噛み合う快感の低い姿勢
横たわる死・だんじて横たわる死
古代の野外円形劇場の太陽の下の醜悪な消却作業
一人だけの少年は哭きわめく
粥状の物質の世界で
コップの嵐のなかで
まさに逆さまだ」(吉岡実「果物の終り」)
絢爛たる言葉で形而上学的イメージの王国を描いた詩人・吉岡実。
ところが、その吉岡が散文を書くと、イメージが一変する。
「三月九日、晴。土方巽の誕生日。来宮の山荘で、正午から四十九日(七七忌)の法要がいとなまれる。庭の松の枝の間から、凪いだ海が輝き、初島がよく見えた。四十人ぐらい集まったようだ。昼餉と酒。夕刻まで、梅園を散策し、おちこちの紅梅白梅を眺める。
夜、元藤夫人から挨拶と今後の方針が述べられる。意見の交換があるも、統一的な結論には至らなかった。」(「補足的で断片的な後書」『土方巽頌』)
一読、シンプル極まりない文章。起こった事をそのまま書いているだけに思える。
しかし、一度でも文章に苦労した人ならわかると思うが、
これはストイックで鏤刻された文章なのである。
客観的かつ即物的であり、およそ詩的なものは排除されている。
私はこういう文章を書きたいとかねて望んでいるが、足下にも及ばない。
それにしても、この詩と散文の著しいコントラストはどうだろう。
ひとりの男のなかの対極に位置づけられることで、
詩はより奔放にイメージを拡張し、散文はよりストイックに純化していったのだろうか。